![](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/戦国大名達.png)
あなたは戦国時代、最強の武将は?・・と聞かれたら
だれを挙げるでしょうか?
甲斐の虎・武田信玄、越後の龍・上杉謙信
あるいは、智謀と戦術の、真田幸村と答える人も、多いかも知れません。
もちろん最強の定義は、様々ですが
僕は後の薩摩藩・・“島津家”を、推したいと思います。
追いつめられた場面からの、精神面
個々の強さ、戦術、外交術、どれもがケタ違いです。
島津家は、戦国から幕末にかけ
その時代の最強勢力と、必ず闘っています。
豊臣秀吉、徳川家康、はてはイギリスまで・・
しかも、いずれも戦いのあと、滅びるどころか
むしろ、とてつもない戦闘力を相手に認められ
逆に、手を握っている事実があります。
いったい、その強さの根源は、どこにあったのでしょうか?
今回、歴史の事実と共に、その中身を、お話して行きます。
九州の覇権をあらそう3勢力
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ときは戦国時代。九州は大きくわけて、鹿児島県に存在した島津家のほか、
大分県の大友家、佐賀県の竜造寺(りゅうぞうじ)家という
3大勢力が、覇権を争っていました。
このなかで大友はキリスト教を侵攻する、キリシタン大名でした
一説には、キリストの教えをもとに、神の国を創ろうと考えていたとも
いわれますが・・
宮崎県で島津家と衝突し、1大決戦。
大友の方が1万人ほど多い軍勢ではあったものの、
さんざんに敗られ、その夢は途絶えてしまいます。
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肥前の熊・竜造寺家(りゅうぞうじけ)
そして九州の覇権をめぐる、つぎの決戦は、
肥前の熊とも、異名をもつ竜造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)
戦場が長崎県の島原市と、距離が遠かったこともあり、
この戦いは島津家3000人ほどに対し
竜造寺軍は2万5千ともいわれる、大軍でした。
高台から島津勢をみた、竜造寺隆信は言い放ちます。
![竜造寺隆信](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/04/674928-150x150.jpg)
なんだ、あの貧弱な軍勢は?一気に押しつぶしてくれる!
闘いがはじまると、やはり数で勝る、竜造寺軍が圧倒。
島津軍は逃げ始めます。
しかし・・この撤退はワナでした、いつのまにか竜造寺隆信の本陣は
身動きの取りづらい、湿地帯に誘い込まれていました。
そこへ左右に待ち伏せていた、島津の別動隊が、はさみうちの猛攻!
この勢いに、大混乱となります。
![島津家久](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/渋い武将-150x150.png)
よかか!雑兵などはすておき、竜造寺隆信ば、打ち取るのじゃ!
![竜造寺隆信](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/04/674928-150x150.jpg)
ばかな!ワシが、こんなところで!
なんと、10倍にも達する兵力差があったにも関わらず、竜造寺隆信は討ち死に。
かつての、織田信長が勝利した桶狭間の合戦にも匹敵する、大逆転・勝利となりました。
ここに島津家は、九州全土を覆いつくす勢いにまで、ふくれあがります。
釣り野伏戦法の詳細
さて、この竜造寺家に大勝利したのが「釣り野伏せ(つりのぶせ)戦法」です。
①おとり部隊が、死をも覚悟して、本気で敵と戦う。
②とても作戦と思えない演技で、逃げ、敵を追わせて“釣る”
③伏せていた別動隊が挟み撃ち、壊滅させる
よくある、待ち伏せ戦法にも思えますが、最初のおとり役は命がけです。
①少数で大軍にぶつかり②しかも直ぐにやられず③敵に背中をみせて逃げる
・・という、危険きわまりない離れ業。
ときには、最初に逃げる軍勢は“おとり”であることを知らされず
戦場へ向かわせられたとも、言います。
豊臣秀吉に助けをもとめる大友氏
さて、2大勢力に、圧倒的勝利をかざった島津家は、
このまま九州を、席巻するかと思いきや・・
滅亡まったなしの、大友氏は大阪城まで出向き、時の天下人、
豊臣秀吉に助けをもとめました。
これは、秀吉にとって九州を平定する、またとない口実。
![豊臣秀吉](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/ひでよーし-150x150.jpg)
おおーよく来られた、大友どの。うむ、争いはいかん。みな仲ようせねばの!
九州の大名は、すべての闘いをやめ、それぞれ領地にかえるのじゃ!
しかし島津にとっては、もうすぐ九州を統一できるというのに、
いきなり出しゃばってきて、なにを言っているんだという話です。
紆余曲折のすえ、秀吉の意向は拒否。
来るなら来いという、強気の姿勢をとりました。
![豊臣秀吉](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/ひでよーし-150x150.jpg)
ほっほっほ!これは、ちと、お灸をすえてやらねばならんのう!
押し寄せる秀吉軍
すでに秀吉に従った、四国の覇者・長曾我部(ちょうそかべ)氏
中国地方の覇者、毛利氏。
さらに黒田官兵衛らが、九州に向け、出陣することになりました。
これまでの竜造寺、大友も強大な勢力でしたが、
秀吉軍はさらに、それらとはケタ違いの大軍です。
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まずは先遣隊として、長曾我部元親・信親の親子、
そして秀吉の最古参の家臣で、武功を重ね、一国一城のあるじとなった
仙石秀久(せんごく・ひでひさ)が、大友氏を助けるべく、九州へ上陸してきました。
この時点で大友氏を攻めていた、島津勢は1万ちょっと、豊臣方は合わせて2万ほど。
しかし、百戦錬磨の、秀吉は釘をさしていました。
![豊臣秀吉](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/ひでよーし-150x150.jpg)
よいか?島津の軍は、相当に手強い。
うかつに動かず、ワシの援軍の到着を、待つのじゃぞ!
ところが、仙石秀久は、血気盛んな猛将でした。
![仙石秀久](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/1107707-150x150.jpg)
われらだけで島津を討てば、太閤殿下も、たいそう喜ばれよう!
ものども、かかれー!
戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)
仙石秀久は歴戦のツワモノ、その怒涛の攻撃に、
さすがの島津軍も大苦戦、ついには支えきれず、撤退を開始・・
![仙石秀久](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/1107707-150x150.jpg)
もらった!、逃げる敵を、たたきつぶせ!
しかし、これは・・またもや島津家・必殺の、釣り野伏せ戦法。
あっというまに、待ち伏せていた島津軍に、袋叩きに。
秀吉の先遣隊は、撃滅させられてしまいました。
![仙石秀久](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/1107707-150x150.jpg)
し、島津勢、ばかな・・強すぎる!
長曾我部信親は討ち死に、仙石秀久は戦場から逃れたものの、
この闘いの、あまりの敗北ぶりが、トラウマとなり、
勝手に四国の、じぶんの領地まで、逃げ帰ってしまいました。
おしよせる豊臣秀吉の本軍
天下統一に王手をかけていた、秀吉軍。しかし初戦は惨敗。
総大将が、命令無視・敗北・勝手に逃げ帰る・・と、散々な有り様。
![豊臣秀吉](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/ひでよーし-150x150.jpg)
仙石秀久!ワシの威信に、よくも泥をぬってくれたな!
幼少から秀吉に仕え、ここまで出世したにも関わらず、
仙石秀久は、すべての領地を没収。高野山に追放されてしまいました。
さて、その後の秀吉軍ですが、もう無様な結果を、のこせないと
完全なる本気モードへ。
名立たる名将と、大軍が、ぞくぞく九州へ上陸してきます。
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黒田官兵衛、前田利家、毛利輝元、丹羽長重 、細川忠興 、宇喜多秀家、
もはや戦国時代の、オールスターかと思うような、
当時の最高勢力や、武将のそろい踏みにくわえ・・
ついには秀吉自らも出陣、総勢20万以上という、
とてつもない大軍で、押し寄せてきました。
さすがの島津も、これを撃退し、さらに四国や中国地方も進撃し、
大阪に攻め込んで、秀吉に勝利!・・というシナリオは、もはや不可能に近いです。
しかし秀吉側も、強力な島津を、完全に滅亡させようと追いつめれば、
勝てても、被害は甚大。
島津家はかなりの抵抗を行いましたが、ついに降伏を申し入れ、
秀吉もそれを受け入れ、ここに闘いは集結。
九州統一の夢はならず、これまで拡大した領地は秀吉のモノとなりましたが、
もともとの領地、故郷の薩摩・日向は、そのまま安堵されました。
手を携えた豊臣秀吉と島津家
![](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/22674814.png)
戦いののち、島津家の強力な戦闘力には、秀吉も一目置きました。
以後、双方は認め合い・・むしろガッチリと、手を結ぶことになります。
さて、時代は進み・・秀吉が朝鮮に出兵をした際にも、島津家は参戦。
一説には、中国の明王朝と、朝鮮の連合軍10万を相手に、
数千あまりの兵で、またも釣り野伏せ戦法を決め、撃破。
その、あまりの強さから、鬼島津(おにしまづ)とよばれ、恐れられたといいます。
・・さて、ちょっと、長くなってまいりましたので
島津家/薩摩藩については、また以下の記事に分け
お話しています。
よければ、ぜひ合わせて、ご覧ください。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。