ときは1600年。天下分け目の関ケ原の合戦。
島津義弘(しまず・よしひろ)は約1000人という、
少数の軍勢を率い、石田光成の西軍に、味方しました。
しかし、序盤は有利だったものの、小早川秀秋の裏切りで、壊滅。
一刻もはやく、戦場から退散しなければと、西軍は雪崩をうって潰走しました。
このとき島津がみせた、衝撃の「逃げかた」は、のちの世まで語り継がれる
伝説となりました。いったい何があったのか?
今回、おつたえしていきます。
修羅の地と化した関ケ原、せまる徳川の大軍
逃げる敵を追い討つべく、約8万人+小早川勢1万5千も加わった東軍は
勝利の勢いに乗り、戦場を覆いつくして行きます。
島津勢はわずか1000人たらず、この戦場から逃れ、
今でいう岐阜県から、鹿児島まで、帰らなければいけません。
雪崩のごとく押し寄せる東軍をまえに、島津義弘は、衝撃的な決断をします。
みなのもの、これよりわれら、敵本陣へ突撃する!
な、なんだぁ!島津が、とんでもない勢いで、こっちに向かってくる!
まさかの行動に、家康軍は、かんぜんに面喰らいました。
この局面で、攻めかかってくるとは、フツウ思いません。
また、精神面も大きく作用しました。
イクサの勝利が決定した、徳川の兵は、
命を失いたくないです。対する島津軍は、全員が死に物狂い!
またたく間に徳川の陣に穴を空け、ついに家康の本陣にまでも
攻め掛かるかと、思われました。
島津の退き口(のきぐち)
い、いかん!殿をお守りするのじゃ!
徳川軍が守りを固めた、つぎの瞬間・・
島津軍は、そのまま、ななめに方向転換!
本陣の脇を通り抜け、戦場を駆け去っていきました。
うしろでなく前へ!敵に攻めかかることで逃げるという、前代未聞の退却。
これは通称、島津の退き口と名付けられ、
後世まで語り継がれる、伝説となりました。
島津の捨てがまり戦法
さあ・・とはいえ、こんなマネをされて
徳川軍が、だまっているはずも、ありません!
おのれ!やってくれたな!全軍、島津を追い討て!
少数の島津とは、比べ物にならない大軍が、怒涛の勢いで、追いかけてきます。
すると、前方にとつぜん島津の兵が、道に座り込んでいます。
そして、鉄砲を撃ちかけてきました。
うわ!島津の攻撃じゃあ!!
またしても、逃げると思った敵が、攻撃してくるので、
徳川軍は、面喰らって、追撃を止めます。
しかし、よくよく見ると・・待ち伏せてるのは、ほんの少人数。
大軍の徳川勢に叶うはずもなく、あっという間に囲まれ
袋だたき!全員が壮絶に、討ち死にします。
ええい、おどろかせおって!こんどこそ、島津義弘を討ち取るのじゃ!
ふたたび進軍していくと・・前方には、またも島津の待ち伏せ隊。
そして、鉄砲をうちかけてきます。
な、なんじゃこやつらは!どうなっておるのだ?
徳川軍はストップ。しかし少数なので、ふたたび囲まれ、玉砕。
この出来事が行く先々に、なんども。
なんと、この待ち伏せ兵は全員『島津義弘を逃がす』
その目的のため、ぜったい死ぬ状況で、みずから捨て石となっていました。
追いかける→とまる→追いかける・・を繰り返すうち
とうとう島津義弘は、修羅の戦場から、逃れることに成功。
大阪の堺までたどりつき、そこから船で、本国に生還しました。
命をすてて、主君を逃がす、このすさまじい撤退の方法は
「島津の捨てがまり」とよばれ・・後々まで、語り継がれました。
その後の徳川家と島津家
フタをあけてみれば、この島津との戦いで、
徳川四天王の猛将・井伊直政は、足を狙撃され大けが。
家康の四男、松平忠吉も負傷と
関ケ原の勝敗が決した後にも関わらず、薩摩兵のすさまじさが伝わります。
一方、島津の側も、とうぜん大損害。
当初、戦場に1000人ほどいた兵も、本国に生還したときには、
80人ほどしか残っていなかったと、伝わります。
怒る家康と、ひるまない薩摩
さてさて・・とうぜんの話として、ここまでした島津を
徳川家康は放っておかず、九州の大名に、討伐を命じます。
島津は、天下人に逆らい続けるわけにはいかず、
和平交渉の使者を、送るのですが・・
なんと、家康への仲介を、関ケ原で傷を負わせた、井伊直政に頼みました。
そのうえ、すごいのが、その態度。他の逆らった大名は・・
も、申し訳ありません家康様、どうかお慈悲を!
と、謝り倒しているところ・・まったく非を認めず、むしろ対等の立場で物言い。
これ以上戦えば、双方ただでは済まぬ。
ここはお互い兵を引くのが、かしこい選択でごわす!
といった勢いでした。
けっきょく押し切った島津家
家康としては、まだまだ関ケ原の戦後処理が有り、鹿児島は遠く
なんといっても、1000人ほどで、あの、とんでもない強さの薩摩兵が
本国に何万もいる・・と思うと、敵にしたくないですね。
ついには妥協し、家康に敵対した大名としては唯一
領地を減らされず、そのまま安堵されてしまいました。
なお、同じく石田光成側で、のちに長州藩となる毛利は、
まったく関ケ原で動かず、最後まで家康と一戦も、交えませんでした。
最後は、おとなしく降伏したにも関わらず・・
7~8か国ほどもあった、巨大な領地の大半は、没収。
2か国に減らされたことを思うと、この差は、どういうコトでしょう。
島津の、外交術のケタちがいさも伝わる、出来事です。
まとめ
さて、ちょっと長くなってまいりましたので
島津家/薩摩藩については、また次回の記事で、
別の側面を、お伝えしたいと思います。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。