![](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/04/514372_s.jpg)
ときは1600年。天下分け目の関ケ原の合戦。
島津義弘(しまず・よしひろ)は約1000人という、
少数の軍勢を率い、石田光成の西軍に、味方しました。
しかし、序盤は有利だったものの、小早川秀秋の裏切りで、壊滅。
一刻もはやく、戦場から退散しなければと、西軍は雪崩をうって潰走しました。
このとき島津がみせた、衝撃の「逃げかた」は、のちの世まで語り継がれる
伝説となりました。いったい何があったのか?
今回、おつたえしていきます。
修羅の地と化した関ケ原、せまる徳川の大軍
![](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/1077550.jpg)
逃げる敵を追い討つべく、約8万人+小早川勢1万5千も加わった東軍は
勝利の勢いに乗り、戦場を覆いつくして行きます。
島津勢はわずか1000人たらず、この戦場から逃れ、
今でいう岐阜県から、鹿児島まで、帰らなければいけません。
雪崩のごとく押し寄せる東軍をまえに、島津義弘は、衝撃的な決断をします。
![島津義弘](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/池田恒興-150x150.jpg)
みなのもの、これよりわれら、敵本陣へ突撃する!
![徳川兵](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/2318770-150x150.jpg)
な、なんだぁ!島津が、とんでもない勢いで、こっちに向かってくる!
まさかの行動に、家康軍は、かんぜんに面喰らいました。
この局面で、攻めかかってくるとは、フツウ思いません。
また、精神面も大きく作用しました。
イクサの勝利が決定した、徳川の兵は、
命を失いたくないです。対する島津軍は、全員が死に物狂い!
またたく間に徳川の陣に穴を空け、ついに家康の本陣にまでも
攻め掛かるかと、思われました。
島津の退き口(のきぐち)
![徳川の武将](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/04/1845618-150x150.jpg)
い、いかん!殿をお守りするのじゃ!
徳川軍が守りを固めた、つぎの瞬間・・
島津軍は、そのまま、ななめに方向転換!
本陣の脇を通り抜け、戦場を駆け去っていきました。
うしろでなく前へ!敵に攻めかかることで逃げるという、前代未聞の退却。
これは通称、島津の退き口と名付けられ、
後世まで語り継がれる、伝説となりました。
島津の捨てがまり戦法
さあ・・とはいえ、こんなマネをされて
徳川軍が、だまっているはずも、ありません!
![徳川家康](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/家康鎧.jpg)
おのれ!やってくれたな!全軍、島津を追い討て!
少数の島津とは、比べ物にならない大軍が、怒涛の勢いで、追いかけてきます。
すると、前方にとつぜん島津の兵が、道に座り込んでいます。
そして、鉄砲を撃ちかけてきました。
![](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/147173.jpg)
![徳川兵](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/2318770-150x150.jpg)
うわ!島津の攻撃じゃあ!!
またしても、逃げると思った敵が、攻撃してくるので、
徳川軍は、面喰らって、追撃を止めます。
しかし、よくよく見ると・・待ち伏せてるのは、ほんの少人数。
大軍の徳川勢に叶うはずもなく、あっという間に囲まれ
袋だたき!全員が壮絶に、討ち死にします。
![徳川の武将](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/04/1845618-150x150.jpg)
ええい、おどろかせおって!こんどこそ、島津義弘を討ち取るのじゃ!
ふたたび進軍していくと・・前方には、またも島津の待ち伏せ隊。
そして、鉄砲をうちかけてきます。
![徳川の武将](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/04/1845618-150x150.jpg)
な、なんじゃこやつらは!どうなっておるのだ?
徳川軍はストップ。しかし少数なので、ふたたび囲まれ、玉砕。
この出来事が行く先々に、なんども。
なんと、この待ち伏せ兵は全員『島津義弘を逃がす』
その目的のため、ぜったい死ぬ状況で、みずから捨て石となっていました。
![](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/732520.jpg)
追いかける→とまる→追いかける・・を繰り返すうち
とうとう島津義弘は、修羅の戦場から、逃れることに成功。
大阪の堺までたどりつき、そこから船で、本国に生還しました。
命をすてて、主君を逃がす、このすさまじい撤退の方法は
「島津の捨てがまり」とよばれ・・後々まで、語り継がれました。
その後の徳川家と島津家
![](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/04/1122423.jpg)
フタをあけてみれば、この島津との戦いで、
徳川四天王の猛将・井伊直政は、足を狙撃され大けが。
家康の四男、松平忠吉も負傷と
関ケ原の勝敗が決した後にも関わらず、薩摩兵のすさまじさが伝わります。
一方、島津の側も、とうぜん大損害。
当初、戦場に1000人ほどいた兵も、本国に生還したときには、
80人ほどしか残っていなかったと、伝わります。
怒る家康と、ひるまない薩摩
![](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/1257894.jpg)
さてさて・・とうぜんの話として、ここまでした島津を
徳川家康は放っておかず、九州の大名に、討伐を命じます。
島津は、天下人に逆らい続けるわけにはいかず、
和平交渉の使者を、送るのですが・・
なんと、家康への仲介を、関ケ原で傷を負わせた、井伊直政に頼みました。
そのうえ、すごいのが、その態度。他の逆らった大名は・・
![西軍の武将](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/2162620-150x150.jpg)
も、申し訳ありません家康様、どうかお慈悲を!
と、謝り倒しているところ・・まったく非を認めず、むしろ対等の立場で物言い。
![島津義弘](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/池田恒興-150x150.jpg)
これ以上戦えば、双方ただでは済まぬ。
ここはお互い兵を引くのが、かしこい選択でごわす!
といった勢いでした。
けっきょく押し切った島津家
![](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/04/066189-1.jpg)
家康としては、まだまだ関ケ原の戦後処理が有り、鹿児島は遠く
なんといっても、1000人ほどで、あの、とんでもない強さの薩摩兵が
本国に何万もいる・・と思うと、敵にしたくないですね。
ついには妥協し、家康に敵対した大名としては唯一
領地を減らされず、そのまま安堵されてしまいました。
なお、同じく石田光成側で、のちに長州藩となる毛利は、
まったく関ケ原で動かず、最後まで家康と一戦も、交えませんでした。
最後は、おとなしく降伏したにも関わらず・・
7~8か国ほどもあった、巨大な領地の大半は、没収。
2か国に減らされたことを思うと、この差は、どういうコトでしょう。
島津の、外交術のケタちがいさも伝わる、出来事です。
まとめ
さて、ちょっと長くなってまいりましたので
島津家/薩摩藩については、また次回の記事で、
別の側面を、お伝えしたいと思います。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。