日本一の“善”代官!天草の乱後、神様となった【鈴木重成】公とは?


ときは江戸幕府3代将軍、家光の時代。

前回のお話では、天草・島原の乱を鎮圧しにきた
幕府軍の総大将が、まさかの討ち死に。

≫天草・島原の一揆はなぜ起こったのか。そして松倉勝家の暴政とは?

日本全土を徳川氏が平定した、大阪夏の陣から、20年ちょっと・・
このタイミングで、地方の反乱ひとつ、鎮められないとあっては
威信に傷がつき、もはや江戸幕府は、なりふり構わない手段に出ました。

あらゆる手段で原城を攻撃

1638年1月、長崎奉行は、オランダ商館長、クーケ・バッケルを訪ねました。

長崎奉行
長崎奉行

こたびの反乱、なんとしても平定せねばならぬ、どうかチカラを貸してもらえますまいか?

<strong>クーケ・バッケル</strong>
クーケ・バッケル

幕府の、方々には、たいへんお世話になっておりマス。われわれも、攻撃に参加いたしマショウ!

オランダは、ゴーテリング砲とよばれる大砲を、幕府軍に提供。
さらに戦艦デ・ライプ号を派遣し、
海から、反乱軍がたて籠る、原城を砲撃しました。

しかし、それでもなお敗北せず、頑強に抵抗する反乱軍。

兵糧ぜめと総攻撃

あらたな総大将となった老中・松平信綱は、 さらなる軍勢をあつめ、
最終的にその数は12万以上に、膨れ上がりました。

しかし、まともに攻め、以前の様に戦死者が増えても、いけません。
軍議の結果、兵糧攻めを行うことになりました。
そして城内の食糧がつき、とうとう弱ったところ、総攻撃の物量で押しつぶしました。

侍大将
侍大将

よいか、反乱軍は1人たりとも逃すでない、全員打ち取るのじゃ!

ここまで、さんざん幕府軍の手を焼かせたことが、
怒りを買い、反乱軍には悲劇となりました。

攻撃は苛烈を極め、城が陥落したのち、
捕えられた反乱軍も許されず、ことごとく処刑されました。

天草四郎も討たれ、とてつもない惨劇という結果にて、
戦いは、江戸幕府の勝利に終わりました。

松倉勝家の最期

さて、もともと天草を治めていた大名、松倉勝家は、その領地を没収され
この反乱を起こした、責任を問われました。

松倉勝家
松倉勝家

反乱を起こしたのは、キリシタンどもだ。ワシに、責任はない!

そう主張しますが、のちの幕府の調査で、キリシタンのコト以前に、
あまりにもひどい政治を、していたことが発覚。

松倉勝家
松倉勝家

ぐああー!

幕府の処断は、もっとも罪の重い、大名としては異例の、打ち首に決定。
以後、天草の土地は、幕府がちょくせつ治めるコトとなり
「鈴木重成(すずき・しげなり)」という代官が、派遣されてきました。

天草へやってきた鈴木重成公

鈴木重成
鈴木重成

なんと、これは・・聞きしに勝る惨状じゃ!

領民の大半が、命をうばわれ、荒れはて、
すべてがメチャクチャな状態に、愕然としました。

鈴木重成
鈴木重成

しかし、何はともあれ、
まず民の年貢を減らさなければ、話にならぬ。

当地の年貢の率は、前領主の松倉家が算出した、とんでもない割合のままでした。

鈴木重成
鈴木重成

この重税では、とても民が暮らして行くこと、なりませぬ!
まずは妥当な半分の割合にする、ご許可を、頂きとうござりまする!

幕府に届け出ましたが、しかし・・

幕府の役人
幕府の役人

いちど定めた規則の変更は、前例のなきこと。
何があろうと、まかりならん!

と、まったく許可されません。

頑として許可されない年貢の変更

あまりに理不尽ですが・・しかし、お役所仕事のごとく、
かたくなに、なんど幕府に訴えかけても、年貢の率は変えてもらえません。

農民
農民

鈴木さま!おねげえでございます!
このままでは、わしらみな、飢え死にするしか、ありませぬ!

領民の訴えに、板挟みとなり、鈴木重成公は苦しみます。

鈴木重成
鈴木重成

どうにもならぬ!こんな年貢では、民たちは確実に死に絶える。
もはやワシにできるのは、1つだけじゃ!

重成公は江戸に戻ると、さいごの訴えを、行いました。

鈴木重成
鈴木重成

どうか、どうか年貢の半減・・お願い、申し上げまする!

なんと自邸で切腹。自身の命とともに、幕府へ願い出ました。

しかし、どこまでお堅いのか・・
そうまでしても、まだ頑として、年貢の変更は許可されません。

しかし、重成公の後を継いだ、養子の鈴木重辰(しげとき)

鈴木重辰
鈴木重辰

なにとぞ、父の命にも免じて、お願い申し上げまする!

なんども、なんども、繰り返し訴え

・・ここにようやく幕府も折れ、年貢の半減が、認められました。
そして、父の意思を継いで、善政を敷き、
ボロボロになりはてた、天草の地は、復興していきました。

神様となった、お代官様

農民
農民

鈴木さまは、わしらのために、命まで差し出された。
ワシらが生きて行けるのも、鈴木さまのおかげじゃ!

町娘
町娘

最後の最後で、わたしたちは、統治者にめぐまれた。
なんて、ありがたい・・。

領民たちは「鈴木さま」の亡きあとも、鈴木神社や、鈴木塚を作り
先祖代々、感謝の想いを忘れないため、祀ることにしました

この“鈴木さま”の歴史と、そして神社は、令和の時代となった今も
語り継がれ、天草の地に存在しています。

もし、ご興味のある方は、Googleなどでぜひ『鈴木様、天草』
などと、検索してみてください。

熊本県の観光サイトなどで、
史跡の案内を、見ることができます。

知られざる本当の英雄

さて、日本史の教科書にも、天草・島原の乱は載っていますが
この、鈴木様のエピソードについては、触れられることは、ありません。

しかし、この“立派”“尊敬”という言葉では足りない
真のサムライがいたこと。
民衆の為、命をかけた、日本1の善代官、鈴木重成公の存在を
ぜひ、多くの方に、知って欲しい思いです。

歴史は、大河ドラマになるような、有名な人物も、面白いですが
いろいろな枝葉を見て行くと、無名ながら、とてつもない出来事や
素晴らしい人間の物語が、たくさんあります。


ぜひ、皆さんも折に触れ、そうした歴史にも触れてみてください。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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