戦闘民族サツマ人①【島津のお家芸・釣り野伏せ戦法】


あなたは戦国時代、最強の武将は?・・と聞かれたら
だれを挙げるでしょうか?

甲斐の虎・武田信玄、越後の龍・上杉謙信
あるいは、智謀と戦術の、真田幸村と答える人も、多いかも知れません。

もちろん最強の定義は、様々ですが
僕は後の薩摩藩・・“島津家”を、推したいと思います。

追いつめられた場面からの、精神面
個々の強さ、戦術、外交術、どれもがケタ違いです。

島津家は、戦国から幕末にかけ
その時代の最強勢力と、必ず闘っています。
豊臣秀吉、徳川家康、はてはイギリスまで・・

しかも、いずれも戦いのあと、滅びるどころか
むしろ、とてつもない戦闘力を相手に認められ
逆に、手を握っている事実があります。

いったい、その強さの根源は、どこにあったのでしょうか?
今回、歴史の事実と共に、その中身を、お話して行きます。

九州の覇権をあらそう3勢力

ときは戦国時代。九州は大きくわけて、鹿児島県に存在した島津家のほか、
大分県の大友家、佐賀県の竜造寺(りゅうぞうじ)家という
3大勢力が、覇権を争っていました。

このなかで大友はキリスト教を侵攻する、キリシタン大名でした
一説には、キリストの教えをもとに、神の国を創ろうと考えていたとも
いわれますが・・

宮崎県で島津家と衝突し、1大決戦。
大友の方が1万人ほど多い軍勢ではあったものの、
さんざんに敗られ、その夢は途絶えてしまいます。

肥前の熊・竜造寺家(りゅうぞうじけ)

そして九州の覇権をめぐる、つぎの決戦は、
肥前の熊とも、異名をもつ竜造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)

戦場が長崎県の島原市と、距離が遠かったこともあり、
この戦いは島津家3000人ほどに対し
竜造寺軍は2万5千ともいわれる、大軍でした。

高台から島津勢をみた、竜造寺隆信は言い放ちます。

竜造寺隆信
竜造寺隆信

なんだ、あの貧弱な軍勢は?一気に押しつぶしてくれる!

闘いがはじまると、やはり数で勝る、竜造寺軍が圧倒。

島津軍は逃げ始めます。

しかし・・この撤退はワナでした、いつのまにか竜造寺隆信の本陣は
身動きの取りづらい、湿地帯に誘い込まれていました。

そこへ左右に待ち伏せていた、島津の別動隊が、はさみうちの猛攻!
この勢いに、大混乱となります。

島津家久
島津家久

よかか!雑兵などはすておき、竜造寺隆信ば、打ち取るのじゃ!

竜造寺隆信
竜造寺隆信

ばかな!ワシが、こんなところで!

なんと、10倍にも達する兵力差があったにも関わらず、竜造寺隆信は討ち死に。
かつての、織田信長が勝利した桶狭間の合戦にも匹敵する、大逆転・勝利となりました。

ここに島津家は、九州全土を覆いつくす勢いにまで、ふくれあがります。

釣り野伏戦法の詳細

さて、この竜造寺家に大勝利したのが「釣り野伏せ(つりのぶせ)戦法」です。

①おとり部隊が、死をも覚悟して、本気で敵と戦う。
②とても作戦と思えない演技で、逃げ、敵を追わせて“釣る”
③伏せていた別動隊が挟み撃ち、壊滅させる

よくある、待ち伏せ戦法にも思えますが、最初のおとり役は命がけです。
①少数で大軍にぶつかり②しかも直ぐにやられず③敵に背中をみせて逃げる
・・という、危険きわまりない離れ業。

ときには、最初に逃げる軍勢は“おとり”であることを知らされず
戦場へ向かわせられたとも、言います。

豊臣秀吉に助けをもとめる大友氏

さて、2大勢力に、圧倒的勝利をかざった島津家は、
このまま九州を、席巻するかと思いきや・・

滅亡まったなしの、大友氏は大阪城まで出向き、時の天下人、
豊臣秀吉に助けをもとめました。
これは、秀吉にとって九州を平定する、またとない口実。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

おおーよく来られた、大友どの。うむ、争いはいかん。みな仲ようせねばの!
九州の大名は、すべての闘いをやめ、それぞれ領地にかえるのじゃ!

しかし島津にとっては、もうすぐ九州を統一できるというのに、
いきなり出しゃばってきて、なにを言っているんだという話です。

紆余曲折のすえ、秀吉の意向は拒否。
来るなら来いという、強気の姿勢をとりました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

ほっほっほ!これは、ちと、お灸をすえてやらねばならんのう!

押し寄せる秀吉軍

すでに秀吉に従った、四国の覇者・長曾我部(ちょうそかべ)氏
中国地方の覇者、毛利氏。
さらに黒田官兵衛らが、九州に向け、出陣することになりました。

これまでの竜造寺、大友も強大な勢力でしたが、
秀吉軍はさらに、それらとはケタ違いの大軍です。

まずは先遣隊として、長曾我部元親・信親の親子、
そして秀吉の最古参の家臣で、武功を重ね、一国一城のあるじとなった
仙石秀久(せんごく・ひでひさ)が、大友氏を助けるべく、九州へ上陸してきました。

この時点で大友氏を攻めていた、島津勢は1万ちょっと、豊臣方は合わせて2万ほど。
しかし、百戦錬磨の、秀吉は釘をさしていました。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

よいか?島津の軍は、相当に手強い。
うかつに動かず、ワシの援軍の到着を、待つのじゃぞ!

ところが、仙石秀久は、血気盛んな猛将でした。

仙石秀久
仙石秀久

われらだけで島津を討てば、太閤殿下も、たいそう喜ばれよう!

ものども、かかれー!

戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)

仙石秀久は歴戦のツワモノ、その怒涛の攻撃に、
さすがの島津軍も大苦戦、ついには支えきれず、撤退を開始・・

仙石秀久
仙石秀久

もらった!、逃げる敵を、たたきつぶせ!

しかし、これは・・またもや島津家・必殺の、釣り野伏せ戦法。

あっというまに、待ち伏せていた島津軍に、袋叩きに。
秀吉の先遣隊は、撃滅させられてしまいました。

仙石秀久
仙石秀久

し、島津勢、ばかな・・強すぎる!

長曾我部信親は討ち死に、仙石秀久は戦場から逃れたものの、
この闘いの、あまりの敗北ぶりが、トラウマとなり、
勝手に四国の、じぶんの領地まで、逃げ帰ってしまいました。

おしよせる豊臣秀吉の本軍

天下統一に王手をかけていた、秀吉軍。しかし初戦は惨敗。
総大将が、命令無視・敗北・勝手に逃げ帰る・・と、散々な有り様。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

仙石秀久!ワシの威信に、よくも泥をぬってくれたな!

幼少から秀吉に仕え、ここまで出世したにも関わらず、
仙石秀久は、すべての領地を没収。高野山に追放されてしまいました。

さて、その後の秀吉軍ですが、もう無様な結果を、のこせないと
完全なる本気モードへ。
名立たる名将と、大軍が、ぞくぞく九州へ上陸してきます。

黒田官兵衛、前田利家、毛利輝元、丹羽長重 、細川忠興 、宇喜多秀家、
もはや戦国時代の、オールスターかと思うような、
当時の最高勢力や、武将のそろい踏みにくわえ・・

ついには秀吉自らも出陣、総勢20万以上という、
とてつもない大軍で、押し寄せてきました。

さすがの島津も、これを撃退し、さらに四国や中国地方も進撃し、
大阪に攻め込んで、秀吉に勝利!・・というシナリオは、もはや不可能に近いです。
しかし秀吉側も、強力な島津を、完全に滅亡させようと追いつめれば、
勝てても、被害は甚大。

島津家はかなりの抵抗を行いましたが、ついに降伏を申し入れ、
秀吉もそれを受け入れ、ここに闘いは集結。

九州統一の夢はならず、これまで拡大した領地は秀吉のモノとなりましたが、
もともとの領地、故郷の薩摩・日向は、そのまま安堵されました。

手を携えた豊臣秀吉と島津家

戦いののち、島津家の強力な戦闘力には、秀吉も一目置きました。
以後、双方は認め合い・・むしろガッチリと、手を結ぶことになります。

さて、時代は進み・・秀吉が朝鮮に出兵をした際にも、島津家は参戦。
一説には、中国の明王朝と、朝鮮の連合軍10万を相手に、
数千あまりの兵で、またも釣り野伏戦法を決め、撃破。

その、あまりの強さから、鬼島津(おにしまづ)とよばれ、恐れられたといいます。

・・さて、ちょっと、長くなってまいりましたので
島津家/薩摩藩については、また以下の記事に分け
お話しています。

≫戦闘民族サツマ人②【島津の退き口】~最強の逃げ方~

よければ、ぜひ合わせて、ご覧ください。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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