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あなたは、薩摩隼人(さつまはやと)というコトバを、聞いたコトがあるでしょうか?
強くて勇敢な、薩摩の武士を指して、言われるのですが
文字通り、彼らは戦国時代から幕末まで
秀吉や家康とさえ全力で戦い、そして実力を認めさせてきました。
そして幕末には、日本という枠さえ越え
セカイ最強の大英帝国と、衝突しました。
しかし、けた違いの戦力で、襲い来るイギリス海軍を相手に
いったい島津家は、どうするのでしょうか?
燃えあがる薩摩の城下町
Fire at will!
苛烈に容赦なく、サツマの砲台にも、港の船にも、城下町にも
大砲やロケット砲を、撃ちまくるイギリス軍艦。
ちなみに、このとき鹿児島湾には、たまたま沖縄・琉球の使者も訪れていました。
琉球王国の王子が乗っていた船も、停泊していましたが、とばっちりで攻撃されます!
な、なんだ!これは、どうなっておるのだ!
バンバン、イギリスの砲弾が降り注ぎ、船も大被害。
王子は、命からがら、逃げ出すことができましたが・・
3隻あった琉球の船は、すべて燃えてしまいました。
もうメチャクチャです。
夜になると、薩摩の城下町は、炎で真っ赤に燃え上がったといいます。
民家350以上、侍屋敷150以上・・さらに、貴重な
お寺や神社の多くも、焼失する大損害を受けてしまいました。
痛み分けとなった薩英戦争
しかし、いっぽうイギリス側も、薩摩の反撃に、まさかのダメージ!
戦艦の1隻が大破・死傷者は60人以上と、被害を負いました。
提督は、これ以上は、深追いできないと判断し、すべての戦艦が、
拠点の横浜へと、引き返していき、ここに薩英戦争は終結しました。
勝敗として、どちらの勝利とみなすかは・・
意見の分かれるところと、なりそうです。
しかし島津家としては、ここまで海外の情報をあつめ、装備を近代化させ、
そこそこは、欧米と対抗できる自信を、持ちつつありました。
しかし実力的には、圧倒的な差を見せつけられ、大被害。
その上、こんかい戦ったのは、イギリス海軍の1部隊です。
もし本気の戦力で攻め寄せて来たら、どれほど恐ろしいか・・
まさに身をもって、味わうことになりました。
セカイにも広がった、薩摩藩の実力
いっぽう大英帝国も、海からの攻撃のみで、上陸は出来ず。
あわや提督も死にかけ、薩摩藩が、これほどやるとはと、
おどろきを隠せませんでした。
このニュースは、世界中に広がり、当時のニューヨーク・タイムズ紙には
こんな社説が、掲載されました。
「この戦争によって、西洋人が学ぶべきことは・・
彼らは勇敢であり、武器や戦術にも、予想外に長けている。
もし戦えば、完全に降伏させるのは難しいだろう。」
手を携える大英帝国と薩摩隼人
ところで・・この事態に、気が気ではなかったのが、江戸幕府です。
なにしろ欧米の、けた違いの戦力を、もっとも熟知していました。
だからこそペリー来航以来、コトを荒立てないよう、
強引な要求も受け入れ、ガマンにガマンを重ねてきたというのに・・
何をしてくれるんだ!・・という、ハナシです。
しかし、さすがの薩摩藩も、さらに欧米と、やり合っては
とても守り切れず、滅んでしまうかもしれないと、痛感。
幕府からも説得され、大英帝国の要求を受け入れる、判断をしました。
ただし賠償金については
われわれは、先の戦いで、城下町がメチャクチャとなり、
支払える資金が、なかでごワス!
・・と主張。なんとか、穏便にすませたい幕府は、苦渋の決断。
ええい、いたしかたない!賠償金は幕府の方で
立て替えておくゆえ、これでイギリスと交渉するのじゃ!
かたじけなか!
こうして、生麦事件からの、一連の戦いは、
お互いの和睦という形で、終結しました。
なお、このとき江戸幕府に借りたお金は、
けっきょく幕末の騒動にまぎれ、
なんだかんだで、踏み倒されました。
したたかな薩摩藩
また、生麦事件でイギリス人を殺傷した、薩摩藩士を差し出せ、という要求ですが・・
本人は、どこかに逃亡してしまい、ゆくえ不明でごワス!
ウソかホントかわからない、うやむやのまま、
最後まで、押し通してしまいました。
薩摩藩の、外交のしたたかさが、うかがえる1つです。
さらに、交渉の場では、イギリスの力を、すなおに称賛。
今回のことで、あなた方のすごさが、わかりもした!
それを受け、イギリス側もまた、称えます。
You’re all very brave!あなた方のつよさ、戦いぶりには・・ワレワレこそ、驚きました!
戦争をきっかけに、むしろ双方は急接近。
幕府に内緒で、留学生をイギリスに送り、技術や制度を学んだり
最終的には、その軍事力をも、取り入れて行きました。
きのうの敵はきょうの友
かえすがえすも、これが薩摩の、とてつもないところ。
ついこの間まで、命を奪い合ってきた相手とも、手を結んでしまう
切り替えの早さ。
おなじ幕末では、山口県の長州藩とも、京都で激しく戦い
それ以来、長州藩士と薩摩藩士がバッタリ合おうものなら、斬り合いになると
言われたくらい、お互い、目の敵にしていましたが・・
やがて同盟を結び、ともに新時代を築く、同志となりました。
これは、単に合理的というコトバだけでは、片付けられません。
薩摩のサムライは、古来より
戦いがおわれば、敵を憎むな!
という精神を、教え込まれたと言いますが、
このコトも、とても大きいと思われます。
いま現代であっても、いったいどれほどの国が、これをできるでしょうか?
ただ、薩摩は強かった・・というだけでなく、こうした精神や外交は
令和の時代であっても、学ぶべきコトが、たくさんあります。
戦国から幕末を生きぬいた薩摩
戦国時代は、豊臣秀吉と徳川家康・・
幕末は、長州藩とイギリス。
いずれも、その時代の最強勢力と、いちどは全力でぶつかり、強さを認めさせ
戦いのあとには、ガッチリと手を結んでしまう。
もちろん、けた違いの強さが、あってこそ可能な、
はなれ業ですが・・事実として、島津家は
鎌倉時代に、薩摩にやってきて以来、
動乱の戦国時代や、幕末さえも、滅びることなく存続し
ついには、天下の覇者にも躍り出て、明治の新時代を、築いて行きました。
薩摩の強さは、イロイロな面から、見ることが出来ます。
・新選組さえ恐れた剣術、示現流
・数々の戦力差さえひっくり返した、釣り野伏せ戦法
・攻めながら逃げる、捨てがまり戦法
しかし、これらに加え、個々のサムライたちの
強靭な精神力と、団結力が合わさったと考えれば
もはや強くない方が、おかしいですね。
まとめ
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
なお、最後に・・こうした歴史のお話ですが、Spotifyのラジオチャンネルでも、語らせて頂いています。
アプリ登録などをしていなくても、聞けますので
もしよければ、是非こちらも合わせて、ご視聴ください。