![](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/足利義政-1.jpg)
よく大河ドラマの舞台に多く、歴史ファンからの人気も高い、戦国時代。
しかし、あなたは具体的にはいつから、戦国と呼ばれるか、考えたことはあるでしょうか?
![](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/04/2099122-1.jpg)
人によって解釈は様々なのですが・・一般的には1467年、
応仁の乱をもって、はじまりとする見かたが、大半です。
さて、その当時、室町幕府の8代将軍だった人物が『足利義政』
そのとき彼は、何をしていたのでしょうか?
そして、なぜ日本は、戦国時代になってしまったのでしょうか?
さいしょは政治に、熱心だった足利義政
さて、足利義政は、先代・先々代の将軍が、あまりにも早く
亡くなったため、わずか8才で、将軍の後継者になりました。
しかし、最初は大いに、志をもった人物でした。
![足利義政](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/2162620-150x150.jpg)
ワシが、足利幕府をささえていかなければ!
関東で権力者の、内輪争いがおこったときには
![足利義政](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/2162620-150x150.jpg)
さように、おろかな争いはやめよ!
・・と、介入して解決を図ったり、
幕府の土台を固めるため、組織づくりを考えたりと、志の高い人物だったと言われています。
また中国との貿易を復活させ、財政を安定させることもしていました。
しかし不運だったのが、彼を取り囲む、もっとも身近な人々が
権力に執着してばかりの人物ばかり。
側近も、育ての親も、乳母も・・つながりのある、
有力な大名を巻き込み、あらそい三昧。
![足利義政](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/2162620-150x150.jpg)
ワシがいくら財政をたてなおそうと、いくら組織を強うしても、
結局あらそいに利用されるばかり、むなしいものじゃ・・
義政は、だんだん真面目に政治をするのが
馬鹿らしくなってきました。
あと継ぎあらそい、交易あらそい、領土あらそい
ところで義政は、子どもがいなかったので、もし何かあったときには
弟を将軍の後継者にすると、宣言していました。
しかしその後、妻の日野富子(ひの・とみこ)との間に、子どもが生まれます。
![日野富子](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/2504382-150x150.jpg)
わらわの子こそ、将軍の後継者じゃ!
彼女は、このように一方的な宣言をします。
それを、山名宗全(やまな・そうぜん)という当時の有力大名も、支持しました。
![山名宗全](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/157171-150x150.jpg)
あらたに生まれたお子こそ、お世継ぎとなられる!
しかし義政の弟を支持する、
細川勝元(ほそかわ・かつもと)という大名は、反論。
![細川勝元](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/1254026-150x150.jpg)
何をいうておる。弟様こそ、将軍みずから指名された後継者であろう!
2人は、あらゆる大名に、支持を呼び掛けて回りました。
すると日本全土から、ぞくぞくと大名や軍勢が、京都にやってきました。
しかも、おのおの、その目に野望をギラつかせています。
![](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/04/746860.jpg)
なにしろ、味方した側が将軍になれば、一気に権勢を強められるのです。
東と西にわかれて、まっぷたつ!
しかも、ややこしいことに、各大名も、
それぞれに家督争い、領土争い、交易争い
を抱えていました。そのため・・
![とある大名](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/吉川-150x150.jpg)
なに!憎きあやつが、西軍に味方と?いい機会じゃ、
ならばワシは東軍に味方し、ついでに滅ぼしてくれる!
もはやなにが正義なのか?こうした混沌とした状態で、戦闘は始まりました。
応仁の乱が勃発、いったい何のために戦っているのか?
こうして始まった、応仁の乱。おそらく日本史上もっとも
わけのわからない、それでいて長く、
被害の甚大だった、内戦といえます。
さて、その事態に将軍の足利義政は、どうしたかと言うと・・
もう勝手にしてくれとばかり、とくに何もしませんでした。
![](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/3832463_s.jpg)
東西あわせて、27万人ともいわる、大軍勢。
しかも京都の中心地で、衝突したのですから、たまりません。
お寺も、民家も、商店も、みんな焼け、
町は、めちゃくちゃになってしまいました。
明日から東軍になるぞ!
戦況は、どちらとも決め手を書き、泥沼のグダグダ。
すると、両軍の参加者は、大将の統制もきかず、好き勝手やりはじめました。
たとえば・・あるとき、1人の大名が開いた軍議。
![とある大名](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/陶1-150x150.jpg)
よいか皆のモノ、われわれは西軍。しかし、どうやら東の方が、有利になりそうなゆえ、われらは、明日から東軍に味方する!
とうぜん、家臣たちにも衝撃が走ったことは、想像に難くありません。
![紅白の司会](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/2076203-150x150.jpg)
はい、ちょっとココで、白組に参加してきますねー!
・・と、さながら紅白歌合戦みたいな勢いで、陣営を変えて良いものでしょうか?
もちろんこれはホンモノの戦争ですから、家臣たちは、命や財産の行く末が掛かっています。
もはや戦う兵士たちさえ
![足軽](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/2318770-150x150.jpg)
わしらは、いったい、なんのために闘っておるんじゃあ?
・・と、わけのわからない状態に、なっていました。
はてしなくつづく戦い
![](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/1216307-1-1.jpg)
ちなみに、それぞれの大名が管轄する、本来の領地の政治は、
大いにほったらかしで、日本中の民は、当然怒ります。
![農民](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/1216307-1-150x150.jpg)
なんにも政治しねえで。京都で戦争ばかり、もう沢山じゃー!
そんな事態に、将軍の足利義政はというと・・とくに、何もしませんでした。
乱が勃発して6年後、もともと両軍の、いちばんの主力だった山名・細川が、
両名とも、病死してしまいます。
しかし、それでも独り歩きした戦争は、おわらず、
けっきょく乱が始まって11年後、1477年になって
『もういい加減にやめよう』ということで、ようやく乱は、集結しました。
あのお殿様は、もういらない
しかし、そんな風に京都で争っている間。地方の多くでは、
あの大名には、もう政治を任せられないという風潮が、強まっていました。
気が付いたら、留守を任せていた家臣に、乗っ取られていることもありました。
畠山という大名などは、領土に戻ってまでも、跡目争いを始めたため・・
![農民](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/1216307-1-150x150.jpg)
もう、おめえらに、殿さまの資格なんてねえだー!
と、農民が一揆をおこし、領地から追い出されてしまったりと
(山城国一揆)
各地で、下克上も起こりました。足利幕府は、滅ばずに存続しましたが
もはや身分の高い者や、権威がすべてではなく・・
強いもの、策略にすぐれた者こそが勝ち残る、
戦国の世へ、日本は突入して行きました。
![](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/04/1077547.jpg)
文化活動に注力していた足利義政
さて、応仁の乱を振り返れば、いちばんの責任者、
将軍である足利義政は、何をしていたのかという疑問が浮かびます。
いちおう、どちらかが将軍の後継者と明言すれば、
はやめに決着がついたかも、知れません。
あらそいは中止せよと、号令をかければ、
何かが、変わったかも知れません。
ところが、そんな最中に彼は文化活動に入れ込んでいました。
![](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/04/1934495.jpg)
陶芸家や絵師、能楽者など、いわゆる芸術家を保護。
その活動を、支援していました。
もともと、こうした人々は身分が低い場合も多く、
将軍の義政とは、天地の差があります。
しかし彼は、そうした分け隔てなく接しました。
![足利義政](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/2162620-150x150.jpg)
そなたの絵は何とも素晴らしい。つぎの作品も、楽しみにしておるぞ!
![文化人](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/ザビエル達.jpg)
は、はい、もったいなきお言葉にございまする!
また義政は、今まで見向きもされなかった、地味な絵や、茶わんに美を見出し、
絶賛したり、世に広めたりしました。
![足利義政](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/2162620-150x150.jpg)
豪華絢爛であれば、良いというものではない。
素朴なモノの中にも、ほんとうの美しさはあるのじゃ。
日本一の権力者でありながら、審美眼を持ち合わせ、
おおくの文化人から、慕われて行きます。
そして文化人たちは、資金も存分に支援され、才能を発揮。
今も京都の観光名所である、銀閣寺の建立も行いました。
・・さて、あなたは、日本文化の象徴である、わびさびという言葉を
よく聴いたことが、あると思います。
その精神も、この足利義政の手がけた
東山文化から、花開いて行きました。
文化人として向いていた
![現代人](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/03/2027442-3-150x150.jpg)
いやいや、文化活動は大切だけど、まず戦争をなんとかしようよ!
今の価値観からすれば、こんな疑問をまっさきに抱いてしまいます。
しかし足利義政としては、現世の人間の、みにくさにウンザリし
心の救いや真の幸福を、芸術の精神世界に、求めたのかも知れません。
また、もともとの気質は、指導者というより、
きっとアーティストに向いていた人物でした。
![](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/05/1057912-1.jpg)
もし周りの取り巻きが、もう少し権力に執着しない人々であれば・・
もし将軍でなければ。
文化人として、足利義政には違う人生が、あったのかもしれません。
しかしながら、結局は権力争いの波にもまれ・・
しかし一方で、すばらしい文化を築きあげ、
享年55才で、この世を去りました。
まとめ
![](https://aeroporto-tokyo.com/blog2/wp-content/uploads/2021/07/2609781.jpg)
さて、日本史を紐解くとき、わたし達はついつい、
誰々は英雄で、誰々はダメ人物などと、決めつけてしまいがちですが、
白黒わけず、いろいろな角度から、その人物を見ることが
とても大切な視点の様に思います。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。