よく大河ドラマの舞台に多く、歴史ファンからの人気も高い、戦国時代。
しかし、あなたは具体的にはいつから、戦国と呼ばれるか、考えたことはあるでしょうか?
人によって解釈は様々なのですが・・一般的には1467年、
応仁の乱をもって、はじまりとする見かたが、大半です。
さて、その当時、室町幕府の8代将軍だった人物が『足利義政』
そのとき彼は、何をしていたのでしょうか?
そして、なぜ日本は、戦国時代になってしまったのでしょうか?
さいしょは政治に、熱心だった足利義政
さて、足利義政は、先代・先々代の将軍が、あまりにも早く
亡くなったため、わずか8才で、将軍の後継者になりました。
しかし、最初は大いに、志をもった人物でした。
ワシが、足利幕府をささえていかなければ!
関東で権力者の、内輪争いがおこったときには
さように、おろかな争いはやめよ!
・・と、介入して解決を図ったり、
幕府の土台を固めるため、組織づくりを考えたりと、志の高い人物だったと言われています。
また中国との貿易を復活させ、財政を安定させることもしていました。
しかし不運だったのが、彼を取り囲む、もっとも身近な人々が
権力に執着してばかりの人物ばかり。
側近も、育ての親も、乳母も・・つながりのある、
有力な大名を巻き込み、あらそい三昧。
ワシがいくら財政をたてなおそうと、いくら組織を強うしても、
結局あらそいに利用されるばかり、むなしいものじゃ・・
義政は、だんだん真面目に政治をするのが
馬鹿らしくなってきました。
あと継ぎあらそい、交易あらそい、領土あらそい
ところで義政は、子どもがいなかったので、もし何かあったときには
弟を将軍の後継者にすると、宣言していました。
しかしその後、妻の日野富子(ひの・とみこ)との間に、子どもが生まれます。
わらわの子こそ、将軍の後継者じゃ!
彼女は、このように一方的な宣言をします。
それを、山名宗全(やまな・そうぜん)という当時の有力大名も、支持しました。
あらたに生まれたお子こそ、お世継ぎとなられる!
しかし義政の弟を支持する、
細川勝元(ほそかわ・かつもと)という大名は、反論。
何をいうておる。弟様こそ、将軍みずから指名された後継者であろう!
2人は、あらゆる大名に、支持を呼び掛けて回りました。
すると日本全土から、ぞくぞくと大名や軍勢が、京都にやってきました。
しかも、おのおの、その目に野望をギラつかせています。
なにしろ、味方した側が将軍になれば、一気に権勢を強められるのです。
東と西にわかれて、まっぷたつ!
しかも、ややこしいことに、各大名も、
それぞれに家督争い、領土争い、交易争い
を抱えていました。そのため・・
なに!憎きあやつが、西軍に味方と?いい機会じゃ、
ならばワシは東軍に味方し、ついでに滅ぼしてくれる!
もはやなにが正義なのか?こうした混沌とした状態で、戦闘は始まりました。
応仁の乱が勃発、いったい何のために戦っているのか?
こうして始まった、応仁の乱。おそらく日本史上もっとも
わけのわからない、それでいて長く、
被害の甚大だった、内戦といえます。
さて、その事態に将軍の足利義政は、どうしたかと言うと・・
もう勝手にしてくれとばかり、とくに何もしませんでした。
東西あわせて、27万人ともいわる、大軍勢。
しかも京都の中心地で、衝突したのですから、たまりません。
お寺も、民家も、商店も、みんな焼け、
町は、めちゃくちゃになってしまいました。
明日から東軍になるぞ!
戦況は、どちらとも決め手を書き、泥沼のグダグダ。
すると、両軍の参加者は、大将の統制もきかず、好き勝手やりはじめました。
たとえば・・あるとき、1人の大名が開いた軍議。
よいか皆のモノ、われわれは西軍。しかし、どうやら東の方が、有利になりそうなゆえ、われらは、明日から東軍に味方する!
とうぜん、家臣たちにも衝撃が走ったことは、想像に難くありません。
はい、ちょっとココで、白組に参加してきますねー!
・・と、さながら紅白歌合戦みたいな勢いで、陣営を変えて良いものでしょうか?
もちろんこれはホンモノの戦争ですから、家臣たちは、命や財産の行く末が掛かっています。
もはや戦う兵士たちさえ
わしらは、いったい、なんのために闘っておるんじゃあ?
・・と、わけのわからない状態に、なっていました。
はてしなくつづく戦い
ちなみに、それぞれの大名が管轄する、本来の領地の政治は、
大いにほったらかしで、日本中の民は、当然怒ります。
なんにも政治しねえで。京都で戦争ばかり、もう沢山じゃー!
そんな事態に、将軍の足利義政はというと・・とくに、何もしませんでした。
乱が勃発して6年後、もともと両軍の、いちばんの主力だった山名・細川が、
両名とも、病死してしまいます。
しかし、それでも独り歩きした戦争は、おわらず、
けっきょく乱が始まって11年後、1477年になって
『もういい加減にやめよう』ということで、ようやく乱は、集結しました。
あのお殿様は、もういらない
しかし、そんな風に京都で争っている間。地方の多くでは、
あの大名には、もう政治を任せられないという風潮が、強まっていました。
気が付いたら、留守を任せていた家臣に、乗っ取られていることもありました。
畠山という大名などは、領土に戻ってまでも、跡目争いを始めたため・・
もう、おめえらに、殿さまの資格なんてねえだー!
と、農民が一揆をおこし、領地から追い出されてしまったりと
(山城国一揆)
各地で、下克上も起こりました。足利幕府は、滅ばずに存続しましたが
もはや身分の高い者や、権威がすべてではなく・・
強いもの、策略にすぐれた者こそが勝ち残る、
戦国の世へ、日本は突入して行きました。
文化活動に注力していた足利義政
さて、応仁の乱を振り返れば、いちばんの責任者、
将軍である足利義政は、何をしていたのかという疑問が浮かびます。
いちおう、どちらかが将軍の後継者と明言すれば、
はやめに決着がついたかも、知れません。
あらそいは中止せよと、号令をかければ、
何かが、変わったかも知れません。
ところが、そんな最中に彼は文化活動に入れ込んでいました。
陶芸家や絵師、能楽者など、いわゆる芸術家を保護。
その活動を、支援していました。
もともと、こうした人々は身分が低い場合も多く、
将軍の義政とは、天地の差があります。
しかし彼は、そうした分け隔てなく接しました。
そなたの絵は何とも素晴らしい。つぎの作品も、楽しみにしておるぞ!
は、はい、もったいなきお言葉にございまする!
また義政は、今まで見向きもされなかった、地味な絵や、茶わんに美を見出し、
絶賛したり、世に広めたりしました。
豪華絢爛であれば、良いというものではない。
素朴なモノの中にも、ほんとうの美しさはあるのじゃ。
日本一の権力者でありながら、審美眼を持ち合わせ、
おおくの文化人から、慕われて行きます。
そして文化人たちは、資金も存分に支援され、才能を発揮。
今も京都の観光名所である、銀閣寺の建立も行いました。
・・さて、あなたは、日本文化の象徴である、わびさびという言葉を
よく聴いたことが、あると思います。
その精神も、この足利義政の手がけた
東山文化から、花開いて行きました。
文化人として向いていた
いやいや、文化活動は大切だけど、まず戦争をなんとかしようよ!
今の価値観からすれば、こんな疑問をまっさきに抱いてしまいます。
しかし足利義政としては、現世の人間の、みにくさにウンザリし
心の救いや真の幸福を、芸術の精神世界に、求めたのかも知れません。
また、もともとの気質は、指導者というより、
きっとアーティストに向いていた人物でした。
もし周りの取り巻きが、もう少し権力に執着しない人々であれば・・
もし将軍でなければ。
文化人として、足利義政には違う人生が、あったのかもしれません。
しかしながら、結局は権力争いの波にもまれ・・
しかし一方で、すばらしい文化を築きあげ、
享年55才で、この世を去りました。
まとめ
さて、日本史を紐解くとき、わたし達はついつい、
誰々は英雄で、誰々はダメ人物などと、決めつけてしまいがちですが、
白黒わけず、いろいろな角度から、その人物を見ることが
とても大切な視点の様に思います。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。