こんにちは。大内義隆、さいごの後編となります。
前回、前々回の内容については、以下よりご覧ください。
≫【大内義隆②】立ちはだかる尼子家、大内家は天下統一できるのか?
一時は京都になだれ込み、天下に覇を唱えそうな勢いさえ、見せていた大内家。
しかし月山富田城で、尼子家に大敗。
可愛がっていた養子も亡くして以来、義隆はすっかり戦意喪失しました。
華やぐ周防の国と、かたむく財政
心の穴をうめるように、芸術や学問の振興に
ばく大な財産を投入する、義隆。
そんな大内家を命がけで守る、陶隆房(すえ・たかふさ)をはじめとする武人たちは
大いに憤慨し、もっと国防をかんがえるよう、主張。
しかし一方、文化活動を支持する家臣は。
陶隆房は、どうも戦のコトばかりでいかん。
そもそも、あやつがお館さまを焚きつけなければ、
尼子に敗れることもなかったのじゃ
と・・武人たちを批判。家臣たちの溝は、深まって行きました。
陶隆房が反乱を起こす?
さて、それからしばらくして・・大内家の内部では
不穏なウワサが、流れ始めました。
お館様、一大事にござりまする。どうやら陶隆房が、
謀反を企てておるようにござりまする!
お館様!早々に手を打たねば、大内家は、陶に乗っ取られてしまいますぞ!
なにをいうておる。あの隆房が、ワシを討つはずがなかろう。
さように、人を疑ってはいかんぞ?
しかし義隆は、そうした警告に、まるで耳を貸しませんでした。
陶家というのは、もともと応仁の乱いぜんから、大内家に従ってきた
忠臣ちゅうの忠臣。とうじの陶隆房も、命をかけ最前線で戦ってきました。
反乱を起こすなど、信じられないのも、ムリはありません。
ところが、その謀反の情報・・じつは真実でした!
陶隆房は、大内家を誇らしく、熱く想うがあまり、
このまま衰退して行くのを、許すことができませんでした。
そして、弱小勢力ならいざしらず、天下を統一し、
戦乱を終わらせるコトさえ、可能な力をもちながら・・
殻に閉じこもり、文化活動に振り切っている様子にも
ガマンが、なりませんでした。
お館様は、変わられてしもうた。ただでさえ危ういこの時期に
もはや財政も、かたむきかけておる!
どうかお許し下され、この隆房、鬼になりまする!
たとえ、お館さまを討ち。反逆者となろうとも・・
必ずや大内を強うし、天下一の家にして見せまするぞ!!
陶隆房は、義隆を討ち、大内家の血を引く、
べつの人物を当主にする意志を、かためました。
そして反乱の軍勢を、ぞくぞくと集結させます。
陶隆房を信じる大内義隆
いよいよ謀反が、起こりそうになると
とうぜん義隆の家臣は、さらに強く忠告します。
お館さま。陶が軍勢を集めておりまするぞ!
われらも兵を、集めなければなりませぬ!!
なにを言うておる?たしかに隆房は、熱くなりすぎるトコロがある。
じゃが、それも大内家を思うておるからこそ。そのようなワケがなかろう!
どれほど警告されても、完全に信じ切っていました。
その様子には、陶隆房に反発していた家臣でさえ・・
まもなく、お館さまは討たれ、陶が大内家を支配するは必定。
生き残るためには、今のうちに味方についておくが、得策じゃ!
・・と、ほぼ大半の家臣が、内々に反乱への支持を、表明するようになりました。
大寧寺の変(たいねいじのへん)が勃発!
1551年、ついにクーデターが勃発!
陶隆房は大軍で、義隆の館へ、攻めよせてきました。
それに対し、なんの準備もしていない、大内義隆の兵は、ごくわずか。
お館様、お逃げ下され。いまや、家臣のほぼ全てが、陶の味方!
とても勝ち目がありませぬ!
そんな・・あの隆房が!それに他の皆も・・そんな、信じられぬ!
ショックと失意をいだきつつ、わずかな家臣に守られ、なんとか本拠地を脱出。
いまの山口県・長門市にある、大寧寺(たいねいじ)というお寺に、逃げ込みました。
しかし、迫る陶軍には、あっというまに、追いつかれてしまいます。
コトここにいたり、大内義隆は事態を理解し・・
そして、もはや逃れられないことを悟り、ついに観念しました。
大内義隆の最期
お館さま、周囲はすべて、陶の軍勢に取り囲まれており、
どこにも逃げ道はありませぬ・・もはや、これまでかと!
あい、わかった。おぬしにも世話になった。
・・わしが大内家を、だめにしてしまったな。
お館様・・。
おお、あそこの茂みを見よ!もう季節は秋じゃと言うのに・・蛍がとんでおる!
1匹だけ、時期を間違えて、とんでおるのじゃ。・・こぼれ蛍じゃ!
どこに行こうと、もう仲間は、どこにもおらぬというに、
バカなやつじゃ!・・ワシのようじゃ。
お館さま!
大内義隆は、さいごに辞世の句をのこして、自害しました。
討つ人も、討たるる人も、もろともに
如露亦如電(にょろやくにょでん)応作如是観(おうさにょぜかん)
いくさで勝つ人も、敗れる人も、一瞬の雷や、つゆのように、はかなく消えていく。
どのような存在も、定まることなく、無常に変化し続けて行く。
最期に、よのなかの全てを、悟ったような言葉を残し・・
享年45歳で、この世を去りました。
陶隆房→陶晴賢へ、悲願の天下統一を目指す
さて、その後の陶隆房ですが、義隆の親戚である
大内義長を、あらたな当主の座にむかえました。
今までと決別するため、陶晴賢(すえ・はるかた)と名も変え、
悲願の、天下統一をめざします。
よいか、みなのもの!われらが目指すは、京都のみ。
すべての豪族は、さっきゅうに兵を、集結させよ!!
しかし・・その方針転換は、あまりに急すぎました。
これまで、大内家にしたがっていた豪族、毛利元就も反発し、衝突!
1555年、ついに戦いとなりました、世にいう厳島の合戦です。
陶軍は、毛利をはるかに上回っていたのですが
毛利元就は、戦国時代でも1・2を争う、とてつもない策略家でした。
まさかの裏をかかれ、決戦で大敗!毛利の軍勢に囲まれ、逃げ道を絶たれました。
大内義隆を討ってから4年後・・主君の辞世の句にあった通り
こんどは自身が、はかなく散る運命と、なってしまいました。
ワシは・・ワシは、いったい、どこで間違うてしもうたのじゃ?反逆者の汚名を着てまで、ここまでしたというに!
追いつめれた、今わの際・・きっと彼の脳裏には、亡き主君
大内義隆のコトが、浮かんだに違いありません。
お館さま・・申しわけございませぬ!
それがし、また武士に、生まれ変わりとうござりまする!!
こんどこそ最後までお仕えし、天下統一の夢を、また・・
・・享年35才。そして最後の当主、大内義長も毛利に討たれ
ここに大内家は、レキシから姿を消しました。
さて、その後の中国地方。
毛利家と尼子家が、はげしく覇権を争いますが
1枚上手であった毛利が、最終的に勝利。
とてつもない勢力の、戦国大名へと成長して行きました。
大内義隆はダメ人物だったのか?
さて、最盛期には、7か国をも支配した名門ながら・・
あっというまに滅びる原因を、つくってしまった大内義隆。
げんざい、日本史上においては、おろかで、だめな人物・・
という評価を、されてしまうことが、多いです。
しかし、大きな視点で見れば、大内の最盛期を作ったのも、また義隆。
政治的な能力は、それほど、劣っていたようには思えません。
ただ・・敵をだまし、出し抜けるモノこそ、生き残れたのが戦国。
そして、窮地に陥ろうと、たとえ大切な人が戦死しようとも・・心おれず
野望をつらぬけた人物こそ、天下人になれた時代です。
いまの時代の価値観とは、真逆。
人を疑わず、繊細なココロの持ち主というのは
すばらしい人柄ではありますが・・
戦国武将には、向いていませんでした。
もし、おなじ大内家でも、ちょっと違う時代の当主であれば、
すばらしい文化を築き、繁栄させた人物と、言われた可能性も高く
「このお殿様、生まれた時代、まちがえちゃったんだよな~」と語った、先輩の言葉には
とても、共感するものをおぼえます。
かわいらしい大内人形
さて、さいごに。
あなたは山口県の伝統工芸品「大内人形」を、ご存知でしょうか?
小さく、丸っこい、ひな人形のような、姿をしているのですが・・
どれも、おだやかで、なんとも癒される表情をしています。
現在でも、お祝い事や贈りものとしても、親しまれているのですが
なまえの通り、かつての大内家が生み出した文化から、生まれた工芸品です。
ながめていると、ちょっと切なく・・しかし、華やかに栄えた、周防の国や
大内義隆の、優しい性格が、しのばれる気がしてきます。
あなたも、ぜひ機会やお時間があれば、いつか山口市を訪れ、
ホンモノの大内文化に触れて頂けたら、幸いです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。