【大内義隆①】ザビエルも驚愕するほど、強大だった大内家。

大内義隆・最大版図

大内義隆は、天下統一できたかも知れない大名だった。

さて、とつぜんですが・・あなたは戦国時代、
秀吉や家康などを除き、天下を取れた可能性のある武将は?
聞かれたら、だれを思い浮かべるでしょうか。

伊達政宗が、もう少し、はやく生まれていたら!

武田信玄が、長生きしていたら、信長も負けていたかも?

きっと、そうした人物が、まず筆頭にあがってくるかと思います。
しかし、そんな英雄が活躍する、すこし前・・まだ信長も幼少の頃。

天下統一に、もっとも近かった大名の筆頭、それが大内義隆でした。
そんな彼ですが、どのような人物で、どういった運命を、たどっていったのでしょうか?

西国一の大勢力

本拠地は周防(すおう)の国いまの山口県にあたりますが、
その勢力は、当時の7か国にもおよび
西は北九州や博多まで支配、大陸との貿易を独占し、巨万の富を得ていました。

もちろん九州にも、多くの戦国大名がいます。
しかし強大な大内家には、うかつに手を出せず、
むしろ従ったり、手を結ぶ武将が、大勢いました。

逆に東側はと言うと、いまの島根県、石見の国。
世界遺産となっている、石見銀山をも、手中に収めていました。

そして全国が戦乱で荒れる中、大内の本拠地、周防は安全かつ、
大いに栄え、西の京都とも呼ばれていました。

フランシスコ・ザビエルも大内の勢力に驚嘆

さて、この時期。キリスト教を布教しようと、ポルトガルから、
フランシスコ・ザビエルがやってきます。周防の国をみた彼は、思いました。

<strong>フランシスコ・ザビエル</strong>
フランシスコ・ザビエル

ジパングのミヤコ、キョウトは、せんそうでアレている。
それにくらべて、スオウのクニは、とてもサカエている。
これからジパングの王は、オオウチ様になるかもしれない!

ザビエルは、とうじ日本に無かった、
望遠鏡オルゴールガラスの器など、めずらしい
お土産を手に、大内義隆に謁見すると、大いに喜ばれました。

大内義隆
大内義隆

おお!これが南蛮の酒、ワインというものか。なんとも赤き色をしておる!
んん?この透明な、まるいモノはなんじゃ?

<strong>フランシスコ・ザビエル</strong>
フランシスコ・ザビエル

オオウチさま、それはメガネにございまする。目のチカラ、おとろえたモノも
メガネ、つかいますれば、みなとおなじヨウに、みること、できまスル!

日本で最初にメガネをかけた人物は、大内義隆だったと、伝わります。
またキリスト教の布教も許可。

日本ではじめて、クリスマスが開かれたのも、
大内の支配する、周防の国であったといいます。

大内家VS尼子家

さて、これほど隆盛をきわめた大内家ですが、
しかし、その前に、大きく立ちはだかっていた、戦国武将がいました。

いまの島根県、出雲の国を本拠地とした尼子(あまご)氏です。

当主の尼子経久(あまご・つねひさ)は、もともと出雲をおさめていた守護大名を、
下克上で追い出し、知略と実力によって、軍事力を拡大。
大内家にも、脅威をあたえていました。

さて1540年、尼子家は、おおきな勝負に出ます。
安芸の国(広島県)の1地方を支配し、大内にしたがっていた毛利元就を滅ぼし
一気に中国地方の覇者となるべく、約3万ともいわれる大軍で、南下。

当時、毛利氏は兵力3千にも満たない、弱小勢力。
絶体絶命のピンチとなりますが、持ち合わせていた実力と知略で、よく守り

さらに大内家からは、武勇と血気にあふれる、陶隆房(すえ・たかふさ)
という武将が、約1万の軍勢で、毛利をたすけるべく出陣。
力を合わせて、みごと尼子軍を撃破し、追い返しました。

世にいう、吉田郡山城(よしだ・こおりやまじょう)の戦いです。

それを見ると、尼子につき従っていた豪族も、
つぎつぎと、大内になびいて行きました。

ついに京都を目指す大内家

大内義隆
大内義隆

隆房、こたびの勝利、大儀であった!そなたのおかげで、風は大内に吹いておる!いまこそ尼子を叩き、決着をつけるとき!

陶隆房
陶隆房

はっ!まさに、今こそ好機。しかし、この隆房・・
尼子を滅ぼしたのち、お館様には、京都へ進軍してほしゅうござりまする!

大内義隆
大内義隆

隆房、おぬし、ワシに天下を取れと申すか?

陶隆房
陶隆房

いかにも!いまや足利幕府の力は衰え、国中みだれておりまする!
力つよく、皆を従える者が、はよう天下を平定せねばなりませぬ。
お館様こそ、それを為すべきお方に、ござりまする!

大内義隆
大内義隆

あいわかった!つぎの戦はワシみずから出陣しよう。また力を貸してもらえるか?

実際に大内は、義隆のじだいに最盛期を誇っており
財力・軍事力・家柄とも、大名の最高クラス。

京都に上洛し、日本全土を平定していくことは、
もはや野望や夢といった段階ではなく
目標といえるほど、現実的であったと思います。

万単位の大軍勢で、動き出した大内軍は
尼子軍の城を次々と陥落させ、進撃していきました。

周辺の豪族
周辺の豪族

大内はいまに天下をとる。はやく、忠誠をしめしておかねば

豪族・吉川家
豪族・吉川家

われら吉川家、尼子から離れ、大内様に加勢いたしたく、はせ参じましてござりまする!

周囲の豪族も、つぎつぎに参戦。尼子の本拠地に達するころには
その軍勢は4万人にも、ふくれあがっていました。

いまも山口県に色濃くのこる大内文化

さて、ここでちょっと、話が変わるのですが・・
あなたは今まで山口県に、
観光に行ったことはあるでしょうか?

いまも大内のレキシや文化を、色濃く残しているものが多数あり
その一つが、 山口駅から車で5分ほどの場所にある、瑠璃光寺(るりこうじ)というお寺です。

その境内は、思わずうっとりしてしまいそうなほど、美しく
大内氏が建造し、国宝に指定されている、五重の塔も、建てられています。

いぜん僕は、歴史好きの先輩に案内してもらい、初めて知りました。
そして、ここには山口の歴史を展示する、資料館もあり
そこには、大内義隆も紹介されています。

しかし、その展示の前で、先輩は、ちょっと切なそうに言いました。

先輩
先輩

あ~、このお殿様ね~。生まれる時代・・間違えちゃったんだよな・・。

いまもなお、伝えられるほど、すばらしい文化を栄えさせ
名実ともに、天下に覇を唱えられる位置にいた、大内義隆。

ですが、生まれる時代を間違えたとは、どういうことなのでしょうか?
そして、尼子氏を攻めたのち、大内氏に何があったのでしょうか?

ちょっと長くなってまいりましたので、大内義隆に関しましては
また次回に続きを、お伝えしたいと思います。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

≫【大内義隆②】立ちはだかる尼子家、大内家は天下統一できるのか?